ベネディクト16世

1972年、ラッツィンガーはハンス・ウルス・フォン・バルタザールやアンリ・ドゥ・リュバックらと共に神学ジャーナル『コムニオ』を発刊。『コムニオ』は今では17言語で発行されるほどカトリック神学の世界において重要なものとなっている。

1977年にミュンヘン・フライジングの大司教に任命された。このとき、彼が司教職のモットーとして選んだ言葉は「ヨハネの第三の手紙」からとった「コーペラトレス・ウェリターティス」(真理の協働者)であった。同年、パウロ6世によって枢機卿にあげられたが、2005年のコンクラーヴェにおいて、パウロ6世の任命した枢機卿のうちで生存しているものは14名、80歳以下でコンクラーヴェに参加できたものはラッツィンガーを含めてわずか3人だった。

エドワード7世

元来イギリス王室は競馬と深いかかわりを持っており、アルバート・エドワードも23歳のときにジョッキークラブに所属している。1863年にはサンドリンガムに別荘を購入し、牧場や厩舎を整えた。平地競走初勝利は45歳と遅かったが、その後はエプソムダービーを3度も勝つなど競馬史に大きな足跡を残した。プリンスオブウェールズステークス(G1)、キングエドワードVII世ステークス(G2)はエドワード7世を記念した競走である。

エプソムダービー、ロイヤルアスコット開催はほぼ毎年臨席し、結局体調を崩したため延期になったが戴冠式もダービーに合わせて執り行う予定だった。

バヤリースの歴史

それ以前からも果汁を絞った果汁飲料というものは存在していたが、すぐに風味が変わってしまうため保存に適さなかった。それについて19世紀後半になってフランスの科学者、ルイ・パスツールが「食品の微生物の活動で変質が発生されやすい」という研究結果が発表され、その微生物の殺菌方法などが考案された。 1938年(昭和13年)に米国の科学者、フランク・バヤリーが果汁の風味・香りを損なわないで長期間保存できる殺菌法を開発した。米国のゼネラル・フーズが特許を買い取り「バャリース・オレンヂ」を発売する。 バヤリース・ブランドのアメリカ国内での販売は1960年代に終了したが、日本とタイの現地法人では現在も製造・販売が続けられている。

チェーカー

当初チェーカーは組織的体系も整っておらず人数も100人足らずの少数であったが、次第に組織も整備され人員も増やされてゆく。1918年4月11日から12日の深夜にかけてチェーカーはモスクワのアナーキストが立てこもる20軒の住居を襲撃し520人を拘束、25人を処刑した。これがチェーカーによる最初の計画的な行動とされている。

その後も、チェーカーは赤色テロの先鋒となった。ロシア皇帝ニコライ2世一家の殺害には3人のチェキストが関与していたとされ、皇帝の親族や従者に至るまで全員が惨殺された。チェーカーにより帝政時代の富裕層は「人民の敵」「反革命分子」となり、貴族・地主・聖職者・軍人・コサック兵は証拠も無く無制限に逮捕され処刑されていった。民間人も対象となり、中には「外国人に道を教えた」という理由だけでスパイ活動を行ったとされ処刑される者もいた。さらに粛清はエスカレートし、チェーカーのメンバーの処刑まで行われるようになり、内部告発にまで至ることもあった。

ハイレ・セラシエ1世

第二次世界大戦後は、冷戦構造の中で親欧米政策を採りながらも、汎アフリカ主義を主導し、反面、ソビエト連邦に接近して経済援助を得るなどの優れたバランス感覚を発揮、アフリカ統一機構(OAU、現在のアフリカ連合)設置に寄与した。

内政面では憲法改正、軍の近代化などの改革を行うが、依然として皇帝独裁を続け、旧体制を維持したため、経済面は発展せず、富裕層の腐敗が進んで国民の生活は悪化の一途を辿り、1960年代の国民一人当たりの年間所得は平均わずか70ドルという世界最貧国の一つに転落するなどさまざまな矛盾を国内に生み出していた。1960年には、皇太子アスファを擁立した陸軍近衛部隊のクーデター未遂事件が発生する。

五・一五事件

世に言う五・一五事件。その5月15日は日曜日で、犬養首相は終日官邸にいた。

第一組9人は、海軍中尉三上卓以下5人を表門組、海軍中尉山岸宏以下4人を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせた(1名が5月26日に死亡する)。

三上は食堂で犬養首相を発見すると、ただちに拳銃を犬養首相に向け引き金を引いたが、たまたま弾が入っていなかったため発射されず、犬養首相に制止された。

そして犬養毅自らに応接室に案内され、そこで犬養首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。その後、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養首相の腹部を銃撃、次いで三上が頭部を銃撃し、犬養首相に重傷を負わせた。襲撃者らはすぐに去った。

それでも犬養首相はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。

山本権兵衛

明治31年(1898年)、西郷従道の推薦により47歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。 山本は「ロシア海軍に勝つ」という一点を当時の海軍の目標として、様々な施策を行った。「ロシア軍艦を全滅するためには、日本の軍艦も半分は沈める覚悟だ」とも公言している。

士官には海外留学を奨励し秋山真之・広瀬武夫などの多数の青年士官を米国、英国、ロシアなどへ派遣した。士官の教育に力を入れると共に、能力ある兵卒は途中からでも士官になれる制度を作り、佐官まで昇進した者も数名出た。

グルノーブルオリンピック

次回の4年後に札幌オリンピックの開催が決まっていた日本は、この大会に過去最高の62選手を送り込んだ。しかし1月28日に男子スピードスケート500mで世界新記録を出したばかりの鈴木惠一も8位と、メダルはおろか6位入賞すら果たせず、次回の開催に不安と課題を残す結果となってしまった。
スキージャンプ90m級では藤沢隆が1本目2位に付けたが、2本目は失敗ジャンプでメダルを逃した(18位)。
男子アルペンスキーでは地元フランスのジャン=クロード・キリー(Jean-Claude Killy)が滑降、大回転、回転の三冠を達成、大会のヒーローとなった。

グエンカーンの国外追放

グエン・カーンは1965年2月25日、彼はアメリカの対南ベトナム政策への不信から南ベトナム解放民族戦線に歩み寄る可能性を示唆したことで、グエン・バン・チュー(阮文紹)ら南ベトナム軍の強硬派若手将校によって事実上フランスへと追放された。

その後1975年、南ベトナムが崩壊するとグエン・カーンは、1977年に妻と4人の子供を引き連れてアメリカに移住し、テキサス州やホンジュラス、カリフォルニア州にあるベトナム系(越僑)の企業などで働いていた。

政治への復帰は、かなり先の事となった。

蔵前国技館時代

蔵前国技館時代の格闘技について。

今の両国国技館のようにエレベーター上下式の土俵ではなかったため、プロレスやボクシングなどの興行を行うときには、土俵の真上にリングを設置していた。

そのため、プロレス興行に登場する悪役レスラーが、リングの下から土俵の土、及び砂を握って、反則攻撃に使うことがお馴染みとなっていた。

これは面白い。

また、あくまで女人禁制の土俵上であるために花束嬢はリング内(ロープをまたいで)には上がれず、リングに上がってもエプロンまででとどまっていた。