山本権兵衛

明治31年(1898年)、西郷従道の推薦により47歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。 山本は「ロシア海軍に勝つ」という一点を当時の海軍の目標として、様々な施策を行った。「ロシア軍艦を全滅するためには、日本の軍艦も半分は沈める覚悟だ」とも公言している。

士官には海外留学を奨励し秋山真之・広瀬武夫などの多数の青年士官を米国、英国、ロシアなどへ派遣した。士官の教育に力を入れると共に、能力ある兵卒は途中からでも士官になれる制度を作り、佐官まで昇進した者も数名出た。